記念座談会

1935年に創業し、90周年を迎えた緑マーク。
長きにわたり尽力されてきた会長、部長、会社OBの方々に、会社の歩みや苦労ばなしなどを交え、数々の思い出を語っていただきました。

 

緑川 恒夫

代表取締役会長

髙坂 寛二

元 専務

現 (有)スリーサプライ川口 社長

伊下 勲

開発部 部長

鈴木 忠夫

管理部 部長

[司会]

 

髙坂 米子

元 経理部 部長

小濃 サト子

元 営業部 業務 係長

根本 美智子

元 営業部 業務 係長

岡村 英彦

営業企画室 室長

「コーディネーター]

 

 

入社当時の会社の様子

鈴木

 

まず入社当時の思い出からお話しいただけますか。

伊下

 

18歳で入社してもう60年川口に住んでいることになるんですね。

入社時は木造建てですから、それから5年後位に今の形の工場になって、「60年の間に緑マークもいろんなことをやってきたなぁ」と思います。

根本

 

私は昭和39年に入社なんですけど、ちょうど東京オリンピックが10月に行われるということで、記念硬貨の交換に会社を代表して郵便局に並びました。オリンピック聖火ランナーの交代が会社近くの厩橋であって、仕事を中断してみんなで見に行ったのを覚えています。

営業業務として仕事に携わったのですけれど、納品に行ったり、検品に行ったり、いろいろ経験をさせていただきました。

小濃

 

私が入社したのが昭和37年ですね。縁があって工場見学したら翌年に会長からお手紙をいただきまして、それがきっかけです。

入社して2年目に、職制ができていきなり業務係長を任命され大変な悩みでした。

髙坂

 

私が入社したのは昭和32年の12月11日です。

最初は住み込みで、食べるものについては不自由しないし、苦労もしなかったんですけど、世間知らずでしたが、初めから経理の仕事をやらせてもらいました。

髙坂

 

私は昭和31年2月に入りまして、その当時はですね石版印刷、ドイツから輸入された滑らかな石をですね、砥石で研ぎまして、その上に転写をして、そこにインキをのせてやってた印刷ですね。

印刷の職人5人が急に辞めることがあって苦労した思いがあります。

鈴木

 

私は入社昭和42年の3月ということで、同期が16か17名で、みんな福島の高校を出てきていたのが印象的でした。

当時は研修期間が長くて、社会のいろはとマナー等も含めてしっかり勉強させてもらいましたね。

会長

 

私は昭和15年生まれだから、髙坂社長の入社の昭和31年は中学に上がる前、ある日突然この人(髙坂氏)が入社するよっていうんで、寝る部屋がないなら一緒に寝ようということになって。みんなと一緒に寝ていたね。

戦前の最初の会社としては上野駅の傍にあって、昭和17年頃にはあの辺までいよいよ爆撃が始まったんだよね。父の実家の福島の田舎に疎開したのが昭和18年だったかなぁ。東京に戻ってから小学校5年の時に浅草に会社が移って、最初は木造の2階建てだったね。

 

 

印刷技術の進化、変遷について

鈴木

 

次は技術開発というところで、これまで貢献したこととか失敗したことをお話しいただけますか。

伊下

 

私が入ってきた時にはオフセット印刷が主流でしてね。会長と台湾に行って、帰って来てからスクリーン印刷になってきたと。どうやって変わっていったかというと、テレビのチャンネルボタンを受けたのがきっかけですね。依頼元におもしろい担当者がいて、日曜日になると電話がくるんですね。「伊下さん、今から行っていいですか?」と。それで風呂敷包みを川口の工場に持ってきて、これをこういう風にできないかとか話を持ち込んできたんです。その後、S工業さんの仕事が徐々に始まって、担当者から「導電ペーストで回路ができないか」というのが最初に受けた内容ですね。それからメンブレン、要するにF.P.C.(フレキシブル基板)って形になった。そこから、オフセット印刷からスクリーン印刷に会社が大きく変わっていったのだと思います。

会長

 

緑マークの第一の発展だけど、創業当時は金属製のバッジを作ってたんだね。大学の帽章とかネームプレートみたいなもの。それからドイツ製の石版印刷機を4~5台並べて転写マークを作っていたね。昭和29年に“スライドマーク”の特許を取ってね、そうしたらものすごく注文が来るわけだよ。それで緑マークに川口工場を作れる財産ができたんだね。

第二の発展は、私が大学2年か3年の時に入ってきたスクリーン印刷。昭和40何年頃から印刷するものが紙からポリエステルになって、どんどんステッカーやラベルの注文が入ってきた。

昭和52年になるとS工業さんの仕事が来て、ものすごく注文をしてくれてね。それから田熊っていう異能の技術者が入ってきてね、“メンブレン”というのがきっちりと理論的に開発・生産できるようになった。それが第三の発展かな。

田熊君と伊下君の二人がね、技術の開発を引っ張っていったね。そしてもう一人設備の天才がいて、緑川正男君といって。緑マークは世界7カ国に工場を作ったからね。全て彼が行って設備を動くように何から何まで並べてきたからね。その時、技術指導に田熊君とか伊下君が行ってね。おかげさまで技術開発と新製品というのが重要ですね。

髙坂

 

当時のお得意さんはミシン屋さんと農機具屋さんで、農機具に貼っていたのが転写マークだったんですね。オフセットの校正機械を導入しまして、石版の代わりに転写マークを刷り始めたんですね。それを1~2年続けてるうちに、アメリカにスクリーン印刷があるということで、印刷機を導入したのが緑マークなんですね。その機械を使いこなすために助けてくれたのが緑川正男君なんです。

鈴木

 

生産効率という観点で、導入したアメリカ製のローソン機械、ドイツ製のロールtoロールについてはいかがですか。

伊下

 

ドイツからロールtoロールを買って、何をやろうかという時に“電卓”の話が来て、初めは精度の問題もあって難しいとされてたんですが、生意気にも「できると思うんだけど…」と部長に言ったのがきっかけで、ロール状態で印刷物を作るという、今まで無かった技術かなとその時思いましたね。

会長

 

ローソン機械を2台導入して爆発的に仕事が増えたけれども、とても手刷りでやってたらダメだということで、ロールtoロールの機械を買って第三工場に入れたんだね。それから後は全自動シリンダーの印刷機ですね。エコーの機械を緑マークでは日本でもトップクラスに買ったんじゃないかな。100台は買ったと思うな。その次はミノペットかな今のね。7工場まで作ってね。そして海外進出に打って出たんだよね。緑マークUSAとか緑マークシンガポールとか海外に7つ会社作ってね。

学生を卒業した頃は、生産部もしっかりしてきたから、営業を3年間、新規だけ訪問することでやってみた。従来の得意先は髙坂社長の部隊にまかせて、大手から中小、200社くらいは単独で訪問してたかな。少しは新規の得意先を獲得して得意気になっていた時もあったなぁ。

 

 

品質、管理の問題について

鈴木

 

過去には品質問題に苦しんだこともあったと思うので、そのあたりのお話しをお願いします。

根本

 

何かあると新潟とか静岡とかに納品に行ったりとか、検品に行ったりとかしたと思います。忘れられないのは、新潟に納品に行くのに上野の駅で工場から届く品物を待っているんですね。ホームまで持ってきてもらって特急に乗り込むんですけど、品物が届かないんですね。それで運転手さんに「待ってください!」って頼んで電車を数分止めて乗り込んだというのがありました。

小濃

 

一番失敗したのは、梱包してあった製品2万5千枚を雨で濡らしてしまったんです。それで初めて社長にお叱りを受けました。それを部屋中全部、一枚づつ干して乾かしたのは忘れられません。あと、納期が間に合わなくて鶴岡の今間SSに届けられず、上野駅で夜行列車に乗る人にお願いして届けてもらったこともありました。今じゃ考えられないですねぇ。

髙坂

 

税務署の調査が入ることになると眠れないんです(笑)。

髙坂

 

昔、S電機の電子レンジから始まったんだけれども、製造ラインを世界一を目標にしてて、とにかく悪いものを出したら大変だということで、ものすごく厳しく管理してましたね。

会長

 

今までの不良で一番大きいのというと、M製作所のアレだな。色が退色しちゃうのが我々わからなかった。大きな損害だったけれども、保険を適用できることがわかってそれで埋め合わせできたのは助かったね。

伊下

 

一番はS社製品の市場クレームかなぁ。S社工場に呼び出されて、S工業から3人、緑マークから4人行って、私が質問に答えようとすると、足を蹴られて止められたというのがあったね。

 

 

思い出深いエピソード

鈴木

 

思い出深いエピソードがありましたら一言いただいて、次に未来に託すというのを先輩としてアドバイス、または緑マークはこうなって欲しいという願いを込めてお話しいただけますか。

小濃

 

会社の慰安旅行って楽しみでしたね。旅行先で各部の発表会があったんですね。その衣装を自分たちで作ったり練習して行き発表し、外注業者さんが一等、二等って評価してくれて、業務で賞金をいただきました。

 

(一同)あった、あった。

小濃

 

そんなことが、懐かしく思えますね。

鈴木

 

芸者風の踊りをサト子さん(小濃)とみっちゃん(根本)、あときょう子ちゃん(佐々木)かな、黒い服装でね。あれは良かったですよ。

根本

 

そういう芸をやるってことが、すごく仲間意識を高めて、仕事を一緒にやっている者同士の絆になっています。

ある時業務の仲間数人が辞めてしまい、あとに残った5人が慰安旅行に伊豆大島に行ったんですが、夜9時くらいまで残業が続き、当時の髙坂次長(寛二さん)が仕事の後、大島へ行く私達を竹島桟橋まで車で送って下さいました。あんこ椿の着物で撮った写真、よい思い出です。今も深いお付き合いができるのは、当時の苦しさを乗り越えた同僚であるからでしょうね。

髙坂

 

昭和49年の3月に本社ができたんです。4階建てね。私は本当にうれしかったです。

私のモットーを言っていいですか?

『仕事は一生懸命やりなさい』

“一生懸命”って言葉が大好きなんです。自分自身、一生懸命やりましたけど、余計なことを考えずに一生懸命やれば与えられた時間にきちんとやれる。それが私の生涯のモットーなんです。

鈴木

 

なんかで表彰されましたね?

髙坂

 

ずっと長いことお仕事をしてて、平成12年の11月に厚生大臣賞をいただきまして、それが唯一の表彰です。

 

 

髙坂

 

歳をとってきたらば、お金じゃなくて働くこと、ですね。働くことによって自分の趣味、とにかくやり遂げると。75歳でもってマラソンに挑戦して、80歳で完走しましたから。それと、富士山も68歳から登り始めて80歳まで。これも完遂。とにかく、やろうとしたことは完遂させる。緑マークの理念の「信義」に基づいた、約束事は守る、というのが私の信条です。

伊下

 

思い出に残ってるのは、初めて台湾行った時かな。何にもわからなくて。いろいろあったけど。

鈴木

 

今日1月17日は阪神淡路大震災のあった日で、その時S社のK部長と香港で待ち合わせていたけど、地震でK部長が関西空港で足止めになって。私は成田から香港で。K部長は「地震でも行けると言ったからには行く」と言うんで、香港のホテルで好きな酒を飲みながら5時間ぐらい待ってたんですよ。そしてK部長が来たら怒る怒る(笑)。「俺はどんな思いして、酔っぱらってるとはなにごとかー!」みたいな。昔の人は約束事を守るっていう、きちっとしてるんですよね。

会長

 

伊下君が台湾行ったのは何歳の時?

伊下

 

28だと思います。

会長

 

進出した台湾の技術指導に伊下君に5年行ってもらって、50人や100人の人脈を作ったはずですよ、我々は。ものすごく役に立ってる。天才的な蔡君とか、馮君とかが緑マークに入ったのは、伊下君の時から始まった台湾との人との付き合いだね。

S工業さんが買ったアメリカのメンブレン工場の技術指導には菊地君を連れて行って、26の時かな、しばらく日本に帰らなくていいからって置いてきちゃったわけ。5~10年いてね。次が高柳っていうのが行って20年ぐらいいて。S工業さんとは初代の社長から二代目、今の三代目に渡ってずっとお得意さんになってるのはそういう人脈があったからだね。

 

 

未来へのメッセージ

鈴木

 

これから会社がどうあるべきかとか、今の社員に向けたアドバイスをお願いします。

伊下

 

ここ数年、何を残してやれるかをずーっと考えてきた。それをあと短い間に、もっと具体的に残すものを作る、ということでやっていきたい。

鈴木

 

伊下部長のノウハウをどういう風に伝授するか、それはもうとても大切なことなんだ、ってことですよね。

伊下

 

難しいけども、やっぱりやっていかないとね。

髙坂

 

最近は人との交流、会話がとにかく少なくなってしまった。今の若い人は「飲もう」って言っても飲みに行かない。昔はそうして人間関係ってできたんだと思うんだけども、そういう関係をね、どういう風に持たせるか。それが一番大切じゃないかなって私は思います。

髙坂

 

さっきの話と重なっちゃいますけど、仕事は一生懸命やりなさい!これが一番楽なんです。

小濃

 

これまでの経験からですけれども、人間の価値はやるかやらないかによって決まる、ってことだと思うんです。常に何かを考えて一生懸命にやる、ってことです。

根本

 

1円のお金のことを考えるんですね。仕事で箕輪からどこかの駅に乗っていく時に、“15円切符”が14円しかなくて買えなかったんですね。そしてひと駅歩いたんです。その時の1円の大切さを、何かにつけて子供に言ったり、孫に言ったり、そういう話をしてました。たかが1円ですけど、されど1円なんですね。細かいお金でも大切にすべきだなって伝えたいです。

鈴木

 

皆さんまだまだ語りつくし足りないと思いますが、許される時間に限りがあります。後の機会にお話を聞かせて貰いましょう。

今日は貴重な思い出話を聞かせていただきありがとうございました。